百合作品とレズビアンの透明化の話

 

少し話題になっている「レズビアンの透明化」についての件です。

いろんな方のツイートを読み、自分なりに色々考えてはみるものの、自分は結局どう思うのか、という所になかなか辿り着けずにいます。
考えの整理等を兼ねて書いていますので、話が脱線したりするかもしれません。今後考えも変わるかもしれません。
こんな考えの人もいるのかー、と読んでもらえたら幸いです。


まず、話題の発端になった作者さんのツイートですが、わたしは「透明化」について述べている方々とは、おそらく違う読み取り方をしています。
その読み取り方もかなり私感に寄せたものになっているとは思うのですが、それは「透明化」について述べている人たちも同じかと思うし、なんなら人類皆そうだと思うので、とりあえずまずは書いてみます。
 
 
私は『付き合ってあげてもいいかな』を読んでいるファンの1人で、作品も読みつつ、当該ツイートも拝読したという感じです。
しかしこのツイートを読んで、差別構造に加担している、性的指向を透明化している、とは、すぐには思えませんでした。
失礼ですが言葉足らずだっただけで、伝えたいことは叫ばれている意見とは違うのでは?と思ったり、いろんなツイートを読んで批判意見にもなるほど…と思ったり。
その行ったり来たりを繰り返しています。
 
 
まず、作者さんは作中でレズビアン・同性愛といった単語を使わない理由について、
「彼女たちを絶対に特別な存在にしたくなかったから」とおっしゃっています。
そして補足として、「等身大のフツーの恋愛のその先に性別だとかそういうのがたまたま絡んでくるだけ、という形にしたい」とも。
 
 
「彼女たちを絶対に特別な存在にしたくなかった」という言葉ですが、私は「親近感を持って読んでほしい」くらいの感じじゃないかなと思ってしまいました。
キャラクターを「特別にしたくない」のは作者にとってではなくて、「読み手にとって特別にして欲しくない」ってことなのではないでしょうか。
それが差別的だとしても、同性愛が現在の世の中で特別視されているのは事実だと思います。
その特別視を読み手の中からぬぐいたいということなんじゃないかなと…。
 
この作品で作者が描きたかったのが『フツーの恋愛』なのだとしたら、読んでほしい相手は百合好き読者やレズビアンセクシャルマイノリティ当事者だけでなくて、異性愛者やマジョリティの人々だと思います。
これは勝手な想像にすぎませんが、「同性愛者だから(同性どうしの恋愛だから)といって、特別に過激(性的に奔放)だったり、神聖・綺麗だったり儚いなんてことはなく、どこにでもいる人間同士の関係性となんら変わりない」ということを、その親近感を、作品を通して非同性愛者にも感じてほしいということではないかな?と。
 
「同性愛者と明記したら親近感が無くなってしまうのか」と言えば確かにその通りです。
そして、「特別にしたくないからレズビアン・同性愛者という言葉を使わない」のなら、「レズビアン・同性愛者という言葉を使うと、彼女たちが特別になってしまう」ということなのか?という疑問もあるかもしれません。
 
でも、単純にキャラクターの本質を見てほしかったという、それだけなんじゃないかな、と思うのです。
レズビアン・同性愛者という言葉が作中にあるだけで本質が見えなくなるのか」と思う気持ちもわかりますが、現実としてそういう色眼鏡が全くないとは言えないと思います。
初めて会った人に私が自己紹介をするとき、「私は◯◯という名前で、レズビアンです」と名乗ったとしたら、その人は私のことを「レズビアンの◯◯さん」と覚えてくれる可能性、大いにあると思うんですよね。
それを、初めて会って名前だけをお互い伝え合って、仲良くなったのちに「私は女性と付き合っている」と伝えたら、「レズビアンの◯◯さん」ではなくて、「友達の◯◯ちゃん、ちなみに彼女がいる」みたいになることって、あるんじゃないでしょうか?
 
そういうことを作品でやりたいんじゃないのかな、と私は思うのです。
 
 
また、これはまた違った話ですが、同性愛者の当事者の中にも「自分がレズビアン・同性愛者だ」と名乗ること・その中にカテゴライズされることが辛い、しんどいという方もいるんじゃないかと思います。
当事者でありながら、自身のマイノリティ性にフォビアを抱えて苦しむ人がいるのはよくある事実です。
そういう人たちにとって、作中で「レズビアン・同性愛者」という言葉が出てこないことで純粋に物語を楽しめるのだとしたら、そういう作品があることはすごく良いことではないでしょうか?
 言葉が出てこないだけで、実際同性愛を描いてるじゃん。と思われるかもしれませんが、それだけカテゴライズや言葉というのは大きな意味を持つことなのだと私は思います。
 
自分のセクシュアリティがカテゴリーを得て、言葉として存在することに安心したり、居場所やアイデンティティを手に入れた人々は、その言語を避けることがつらく、許せないのかもしれません。
でも、カテゴライズされることで息苦しさを感じる人々、言語化されることで苦しみを感じる人々は、どこで安らぎを得ればいいのでしょうか?
 
 

また、補足の中にあった「等身大のフツーの恋愛のその先に性別だとかそういうのがたまたま絡んでくるだけ、という形にしたい」という言葉についてです。
 
これに対して「作中のキャラクターは、たまたまではなく明らかに相手に女性を選んで恋愛しているのに矛盾している」とか、
「"たまたま女性を好きになっただけ"というよくある構文はもう聞き飽きた。私は女性しか好きになれないし相手が女性だから好きになるのだ」という意見も見ました。
(後者については私も大変そう思います。)
 
私は作者さんのこの文章、「等身大の恋愛の先で、キャラクターが”たまたま女性を好きになった”」ではなくて、
「等身大の恋愛の先で、キャラクターが”たまたま女性を好きになるセクシュアリティだった”」ということなのではないかな?と思いました。
先ほどの「親近感」「本質」についての話と同じで、見て欲しいのはセクシュアリティ・カテゴリーよりも、キャラクターの本質なんじゃないかな?と。
キャラクターの中にセクシュアリティが内包されているというか。
 
先ほども書いたように言葉の力は小さくもなかなか強いもので、「このキャラクターは同性愛者です」と描いてしまえば、非同性愛者の読者はちょっとだけ親近感を弱めてしまうんじゃないかと思うのです。
「こんなどこにでもいそうな、よくある恋愛をしてる大学生のキャラクターが同性と付き合っているなら、同じ大学の友達グループの中にも、同性と付き合っている子がいるのかもしれないなあ」
非同性愛者の読者がそう思えるのが親近感なんじゃないかな〜、と勝手に思ったりするのです。
 
しかし、そのために「レズビアン・同性愛者」という言葉を使わないことが正しいのか・良いことなのか?
その行為はマジョリティにへつらっていることになるのではないか?
それが論点というか、気にされているところなんだと思っています。
 
「同性愛者と書くことで親近感が弱まる」と思っていること自体差別だ!と言われると確かにそうです。
でも現実そうなんじゃないかな〜と思ってしまったのも事実です。
そういう現状の中で、(悲しくもですが)色眼鏡や先入観に繋がってしまうような言葉を避けるのは、マジョリティにおもねっている・へつらっていることになるのでしょうか?
それは気に入られるように振舞っているというよりは、目くらましをして意識の中に滑り込むとか、そういう差別との戦い方や問いかけ方のひとつなんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか…?
 
 これを「透明化」だと許せない方々も間違っていないと思います。
そうやって声をあげて、セクシュアリティを明らかにしてくださった方々のおかげで歴史が前進してきた事実も大いに存在します。
ただ、これは差別との戦い方のうちのひとつなのだと思いました。
 
自分のセクシュアリティをオープンにしてマイノリティもここにいるのだと声を上げる、そういう人たちのお陰で透明化されずに「ここにいる」のだと示せている現実は大きいです。
(私事すぎますが、私も同性愛者がユニコーンだと思われるのが許せなくて、セクシュアリティをオープンにして生きています)
 
でも、カテゴライズを避けてセクシャリティを名乗らずに、女性を愛する女性でいる・いたい、と思っている人々も確かに存在しています。
これは曲解なのかもしれませんが、「”キャラクターにレズビアン・同性愛者と名乗らせないことで差別に加担している”というなら、
クローゼットとして生きたりレズビアンと名乗りたくない自分も、差別に加担した生き方をしていることになるのだろうか?」と、小さく呟いている方も見かけました。
 
それはなんというか…悲しすぎるんじゃないかなあ、と率直に思ってしまいました…。
 
 
先入観を抱かれそうな言葉をつかわずにしれっと意識の中に滑り込む戦い方と、セクシュアリティをオープンにして存在を示す戦い方、
どちらも両方やっていったら強いんじゃないかな、とか思ったのですが、安直すぎるでしょうか…。
 
  
確かに作者さんの使った「レッテル」という言葉は良くなかったなと私も思いました。
でも、なんとなく「レッテル貼りが好きじゃない」というより、「カテゴライズが好きじゃない」と言いたかったんじゃないかな?などと思ってしまうのです…。
作品から感じたものを信じすぎているとか、好意的に読み取りすぎていると言われればその通りです。
 
 
でも、言葉を誤っただけなのでは?と考える余地もなく、「差別心が透けて見える」などと言葉を超えて心まで決めつけてしまうのは、些か性急すぎるのではないかな、と少し思ってしまいました。
 
 
あとこれは本当に蛇足なのですが、作者が登場人物を「レズビアン・同性愛者」と言葉で表現しなくてもキャラクターはレズビアンである、との意見も見かけたのですが、それって本当にそう言い切ってしまっていいのかな?と感じています。
キャラクターの性自認が作中で明言されていたなら私の見逃しなのですが、性自認が女性かどうかなんて、本人が言わなきゃわからないんじゃないかな、と思うのです。
Xジェンダーやクエスチョニングであるかもしれないし、外からは決められませんよね。
これは現実世界でもそうだと思っています。
外見が女性に見える、女性が好き、だからレズビアンだ。とか、他人のジェンダーセクシュアリティを決定づけることはできないです。
自分自身ですら決められず、常に流動し続けている人も多くいると思いますし。
屁理屈みたいではあるのですが、少し考えてしまった部分でした。


・・・
 

ここからは余談になります。

作者さんほど有名でも、多くの人の目に触れるようなものでもありませんが、私も創作物をつくる人間です。
そして、作品を作るとき、作品によって「これはセクシャルマイノリティ当事者に刺さってほしいな〜」というものと、「当事者以外にも刺さってほしい!(当事者の気持ちや境遇に思いを馳せるきっかけになってほしい)」というもの、双方があります。
そして、後者の場合はあえてレズビアンや同性愛という言葉を明記しないこともあります。
 
今回の「透明化」の件についてパブサしていたら、上記の行為に対して「レズビアンや同性愛ってワードを付けると"過激"(最近はなくなってきつつあるかもしれないけど、同性愛ものは同性愛というだけで、過剰に性的なイメージを付与されがちだったりするので…。)だし、
専門的っぽくて読者を選ぶ。だからはっきりしない方が万人受けする。多くの百合作品がやってることで、それっぽい言い訳だ」という意見も見かけました。
それって、そんな風に言われてしまうほど悪いことなのかな?と考え込んでいます。
 
 
わたしの今まで作った作品のうち、レズビアンや同性愛という言葉が出てこないものについて、「異性愛ものと間違えて読んだらすごく良かった、百合を初めて読んだ」という感想をいただいたことがあります。
私はそれが素直に嬉しかったですし、そういう入り口になるのも良いんじゃないか、と思うのですが…。
 
同性愛にふれるキッカケになってほしい・セクシャルマイノリティ当事者や百合好き以外にも読んでほしいと思ってつくられた作品があってもいいと思うし、出来るだけ広く読んでもらうために、あえてレズビアンや同性愛って単語を使わないようにするのはアリだと思っているのですが、それがマジョリティにおもねっている行為なのだと言われると、そうなのでしょうか?
 
私がマジョリティ(と簡単にここでは書きます)の人たちに読んでほしいなと思う作品にレズビアン・同性愛という単語を使わないことがあるのは、「あぁ、百合ね」「同性愛ものなのね」と、選択肢から弾いて欲しくないからです。
「そもそも同性愛と明記したら避けるような価値観があること自体が問題」といえばその通りです。でも現状まだまだ、そういう価値観もあるのは事実だと思います。そこは世の中に変わっていってほしいです。何かできることがないかなとも思います。
差別意識とどこまで絡んでいるのかはわからないですが、単純にジャンルとして好みでないとかもあると思います。
そういうハードルを飛び越えて、まずは読んでみてほしいなあと思うのです。
 
いつかは「同性愛」「レズビアン」という言葉があっても、作品を読む読まないの判断としてなんのハードルにもならなくなってほしいです。
でも現状そこで立ち止まってしまう人がいるなら、まずは作品を読んでもらえることで、気づかないうちにそのハードルを超えている人が居たりしないかな、と小狡く思ったりします。
 
 
 
少し話はそれてしまうのですが、今回の件から枝分かれして、「百合文化をレズビアンに返すべき」みたいな意見を持っている人もいると知って、私は結構それがショックでした。
(ちゃんと読み取れていなくて、ただの勘違いかもしれませんが…)

私の考察が合っているかは分からないけれど、少なからず今回の件で怒っている人たちの中には、「百合作品はレズビアンのもの」と思っている人たちがいるのかな、と思いました。
だから、「私たち(レズビアン)のための物語のはずだったのに、その実マジョリティにへつらっていたなんて!」という怒りがあるのかもしれないなあ、と。
 
それは裏を返せば、『付き合ってあげてもいいかな』という作品が当事者にすごく刺さっていたということだと思います。

過去、世に多く出ていた百合漫画作品には、どことなく「‪"百合"は儚くファンタジー化されたもので、レズビアンとは違う」という風潮があるものも、多かったように思います。
レズビアン当事者の中には、そういう風潮を好まない人も多いのではないでしょうか。
それは、「百合は綺麗・儚い・ファンタジー」とされてしまうことで、私たち現実で生きるレズビアンの直面する差別や、抱えている問題・日々受けるストレスなどが、矮小化されていくように思えるからだと私は感じています。
 
『付き合ってあげてもいいかな』では、登場人物はみんなダメな部分があって、人間臭くてとても可愛いです。
そのリアルな人間臭さが、「女性同士の恋愛は儚さを求められたり神聖化されるようなものではなくて、どこにでもいる人間どうしの関係性なのだ」と感じさせてくれて、私はすごく読んでいて楽しかったです。
だからこそ、レズビアン当事者にとっても「これはリアルな物語だ」と感じられたり、親近感が持てたのではないかなと思うのです。
 
 
 
でも、私は百合作品はレズビアンのためだけに存在しているわけではないと思います。
百合というジャンルの中に「これはレズビアン当事者のために描いたよ!」という作品があったとしたら、とても喜ばしいことだと思います。
私もレズビアン当事者だし百合が好きだから、これからそういう作品が増えたら嬉しいなと思います。
でも、百合っていうジャンル自体はいろんな人のためのものであってほしいし、さっき述べたような「綺麗で儚いファンタジーな作品」も存在していてほしいし、そうじゃないリアルな作品も存在していてほしい。
その中にいわゆる「レズビアンロマンス」とか当事者性の強い作品が、これからどんどん内包されていくようになっていったら、とってもいいなと思います。
そうしてどんどん市場も発展して行ってほしい。
 
それに、私はレズビアンだけど男女の恋愛の物語も面白く読んだりします。
それに対して「これは異性愛者のための物語です!」って言われてしまったら、「あなた(同性愛者)の為のものではありません!」って言われているみたいですごく悲しいと思います。
 
 
ただ、「百合はレズビアンの為のもの(であってほしい)」と思う人たちは、いわゆる「にわか」に入ってきてほしくないとか、正しい知識を持たない野次馬のような人には、同性愛やレズビアンを扱った作品を読んでもらわなくて構わない!と思っているのかもしれないな、とも思いました。
だから、レズビアンや同性愛という言葉をあえて使わず、マジョリティに読みやすくしましたよ!という行為について、へつらっている!と怒り(というより危機感かもしれません)を覚えるのかな?と感じたりしました。
 
それは当然のことでもあると思います。
今まで無知だった人がそういった作品からふいに同性愛にふれたとき、無知ゆえに無遠慮な言動をしてしまうこともあるかも、というのは私でも想像がつきます。
ただ普通に生きているだけでも、他者の悪気ない言動で傷ついたりストレスを感じることも少なくない中で、そういうリスクを増やしたくない、という切実な気持ちもわかるのです。
 
無知だからという理由で人を傷つける言動が許されることはないし、だから入ってきてほしくない、入ってくるならばきちんと知識を身につけてくれ、と思う気持ちもわかります。当然のリスクヘッジだと思います。
だから、無知な人を招き入れるならせめて描く側には誤った(と感じるような)価値観を流布しないでほしい、流布したならせめて自身の手で訂正などをしてほしい、なぜなら影響力のある描き手なのだから、と思うのかもしれないな…と感じたのでした。
 
 
確かに、表現をして広く読んでもらいたいのなら責任のようなものが伴うと、私自身、自戒として考えてはいます。
でも、純粋に読み手の立場になったとき、他人にそれを求めるか?と言われると、それは他人に期待をしすぎなのではないかな、私はそこまで求められないな、と思ってしまう部分もあるのです。
確かに責任を負わねばならないような過ちもあると思います。
でも今回の件、もう少し考える余地があったのではないかな?と考えてしまいました。
 
言葉選びの過ちではなかったか。個人の価値観の範疇ではなかったか。
マイノリティであることを、どのくらいアイデンティティにしているかという差の話でもあったと思います。
 
批判は悪いことではないですが、すぐに「それは間違っている!!」となるのではなくて、「その意見について私はこう思う」、「私はこういうやり方でやっていきたい」と言えたらいいなと思います。正義も意見も生き方も人の数だけあるので…。
あとは、「その言い方はこういう意図ですか?こういう受け取られ方になってしまいますが、こういう問題がないですか?」って聞いてみるとかどうでしょうか?
言葉が下手な人々はいます…。
私もうまくないです。だからせめて作品で伝えようと、頑張っているので…。
 
 
 
それから、浮かれた意見すぎると言われてしまうかもしれませんが、若い世代はもう「透明化」より少しだけ先に進んでいるんじゃないかな、と思うのです。
 
友人の話ですが、妹さんに「女性のパートナーがいる」と告げた際に「そんなの今は珍しくもない話」と返されたそうです。
妹さんは当時23歳ほどと聞きました。現在は26歳だそうです。
皆がそうとはもちろん思えませんが、ニュースでLGBTという単語が流れるのも珍しくなくなり、ユーチューバーにも顔を出して配信をしている当事者がいて、昔みたいに「女なのに女が好きなんて、この世で自分だけなんじゃないか?」とか思う余地もなくなりました。
すっごいことだと思います。
 
まだ問題が多いのも重々承知で、それでも先人の方々のお陰で言葉や存在だけでも可視化され、ほんの少しずつ存在を示せるようになってきている気がします。
今の大学生や20代などの若い世代は、「レズビアン?同性愛者?そんな人本当にいるの?」ってところから、「聞いたことあるけど、本当に身近にいるのかな?」になってきているんじゃないかなと思うのです。
 
そういう地点において、『付き合ってあげてもいいかな』みたいな、私風に言うなら「マジョリティも親近感を感じられる作品」「目くらましをして意識の中に滑り込むような作品」って、効き目がある人もいるんじゃないかと思います。
 
 
もちろん存在を示し続けることはとても大事で、私自身も、これからもオープンでい続けたいと個人的に思っています。
でも、また違った理解の促し方も同時に考えられるように、少しずつ進んでいるんじゃないかな、と私は信じたいです。
 
 
重複があったり、過不足があったりして読みづらい所もたくさんあったかと思います。
とても長い文章になってしまいすみません。論点もすごくずれてしまっていると思います。
個人の拙い意見ですが、お読みくださりありがとうございました。